(旦那)
何度も、何度も耳にした己の呼び名。彼だけが使う、その名。親しみを込めて、ふざけたように、怒りを以って、そして時には真剣な声音で。幾度となく、あの声でこの名は紡がれた。
彼がくれた全てを忘れないで持っていたいと願うのに、この腕には抱えきれないほど繰り返された名前。だが、思い起こせる全てを手繰ってみても、一度だって突き放すような色を持っていたことはなかった。いつだってその声から感じ取れたのは、彼と己の"近さ"だった。
それが何よりも嬉しかった。幸せだった。彼と己がただの主と忍ではないことの、そして何より彼自身がそう思っていてくれることの証のような気がしていた。
だからこそ。
だからこそ、いつか来るその日。彼が己の名を、"幸村"の名を呼ぶとき、全てが壊れてしまうのだろう。どうにか必死で守っているものを全て失うことを、恐らくずっと前から自分は知っていた。
一度だけ、元服の折に呼ばれた"幸村様"という呼び名。そこにあったのは、忍が主に向ける、ただの忠義だった。彼と己を隔てる、薄い、だが決して壊せない壁だった。
あのとき、自分はどうしたのだったか。確か、いやだ、やめろと駄々を捏ねたのだったか。ただ、彼が―――佐助が困ったように微笑って、旦那と呼び直してくれたことだけ憶えている。
けれど、きっともうすぐそれが許されなくなるときが来る。佐助はもう、この秘めた想いに気が付いているのだろう。この日の本の情勢だって変わってきている。己の我儘などで傍にいられる時間は、もうすぐ終わりを迎える。
佐助にこの想いを受け入れる気はなく、―――受け入れることを許す時勢でもない以上、どうすることも出来ない。
佐助の望みは、自分の想いと交わることがない。だから、ただ恐怖しながら待つしかないのだ。少しでも、その日が遠いことを願って。
(きみとの距離が、開いていく)
何度も、何度も耳にした己の呼び名。彼だけが使う、その名。親しみを込めて、ふざけたように、怒りを以って、そして時には真剣な声音で。幾度となく、あの声でこの名は紡がれた。
彼がくれた全てを忘れないで持っていたいと願うのに、この腕には抱えきれないほど繰り返された名前。だが、思い起こせる全てを手繰ってみても、一度だって突き放すような色を持っていたことはなかった。いつだってその声から感じ取れたのは、彼と己の"近さ"だった。
それが何よりも嬉しかった。幸せだった。彼と己がただの主と忍ではないことの、そして何より彼自身がそう思っていてくれることの証のような気がしていた。
だからこそ。
だからこそ、いつか来るその日。彼が己の名を、"幸村"の名を呼ぶとき、全てが壊れてしまうのだろう。どうにか必死で守っているものを全て失うことを、恐らくずっと前から自分は知っていた。
一度だけ、元服の折に呼ばれた"幸村様"という呼び名。そこにあったのは、忍が主に向ける、ただの忠義だった。彼と己を隔てる、薄い、だが決して壊せない壁だった。
あのとき、自分はどうしたのだったか。確か、いやだ、やめろと駄々を捏ねたのだったか。ただ、彼が―――佐助が困ったように微笑って、旦那と呼び直してくれたことだけ憶えている。
けれど、きっともうすぐそれが許されなくなるときが来る。佐助はもう、この秘めた想いに気が付いているのだろう。この日の本の情勢だって変わってきている。己の我儘などで傍にいられる時間は、もうすぐ終わりを迎える。
佐助にこの想いを受け入れる気はなく、―――受け入れることを許す時勢でもない以上、どうすることも出来ない。
佐助の望みは、自分の想いと交わることがない。だから、ただ恐怖しながら待つしかないのだ。少しでも、その日が遠いことを願って。
(きみとの距離が、開いていく)
4. 名前を呼ばないで
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