どれだけ願ったって、どうせ手に入らないのなら。どうしようもなく遠い、どんなに手を伸ばしたって届かない位置にあって欲しい。それだけだ。
 望むのはたったそれだけなのに、どうして叶わないんだ。
03 ・ 願いは裏返って
 真っ直ぐに帰宅する気にはどうしてもなれなくて、わずかばかり回り道をして見慣れた通りに辿り着いた。すっかり日も落ち、薄暗い街灯が照らす道を一人歩く。
 なんだか、どっと疲れた。思っていた展開とはかなり違ったが、これだけ疲れていれば簡単に寝入れるかもしれない。そもそも、身体を酷使するばかりのあんな行為は、しなくて済むならそれに越したことはないのだ。想いの伴わない行為は、何より精神を擦り減らす破目になる。眠れないよりはマシだが、しないで済む方がもっと良いのは間違いない。
 敢えて翌日に待っているだろう相棒の尋問のことは頭から追いやって、虎徹はようやく見えてきた自身の住むアパートの玄関へと視線を向けた。その瞬間、踵を返して何処かに逃げ出したくなった自分は、きっと何も悪くない。その筈だ。

「思ったより遅かったですね。……いや、早かった、のかな」

 にこり、意味深な言葉と共に営業用の笑顔を向けられて、虎徹の背筋を嫌な汗が流れる。なんで、なんでバニーちゃんが此処にいるんだよ!?、そう叫びだしたいのを抑えて引き攣った笑みを返す。あまり人通りがないとはいえ、皆無ではないのだ。自分から騒がしくして注目を集めることはしたくない。有名人のバーナビーがいるならなおさらだ。

「あー……えっと、……取り敢えず、家の中、入るか」

 ポケットの中の鍵を探りながら言えば、バーナビーは何故か戸惑うような、躊躇うような表情を見せた。虎徹にしてみれば、ブロンズステージの住宅街なんかにバーナビーをいつまでも立たせておけないという判断からの発言だったのだが、何か変だっただろうか。大体、バーナビーが此処を訪れた用件からして、外で気軽に話せる内容ではない。当然の選択だと、虎徹は思っていたが、バーナビーには違ったのだろうか。
 そう内心で首を傾げながらも、視線を伏せたバーナビーが頷いたので、追及することはせずに見つけた鍵を鍵穴に差し込んだ。


「……まぁ、ちょっと散らかってるけど気にすんな」
「どこがちょっとですか。まぁ、おじさんらしいと言えばおじさんらしいですけど」

 玄関の扉を開いた途端、転がる酒瓶に眉を顰めたバーナビーにそう言えば、呆れたような諦めたような溜息が返ってきた。取り敢えずソファの上に散乱していた雑誌を重ねて、床に投げる。座るスペースだけは確保して視線を向ければ、もう一つ溜息を吐きながらもバーナビーは大人しく腰を下ろした。
 それを見やって自分も向かい側に座る。コーヒーの一つも出した方が良いのだろうが、生憎と今の虎徹にとってバーナビーは招かれざる客なのだ。想い人であっても、いや、想い人だからこそ今は共に居たくはなかったし、家に上げたくなかった。好きな相手が自分の家に来たところで喜べるほど、この恋は幸せなものではなく、自身の抱える想いだって綺麗でも純粋でもない。だから、今二人の間にある空気が、いつかの―――虎徹が馬鹿げた"遊び"を始める前のような、反発し合いながらも何処か気安さを感じるようなものだったとしても、それにいつまでも浸っている訳にはいかないのだ。
 そう腹を括って、虎徹はへらりとした笑みを張り付ける。自分の感情の一切を隠すように。何も、悟られる訳にはいかないのだ。

「で? バニーちゃんは何の用で来たんだ?」

 白々しくそう問えば、バーナビーの綺麗な顔が不快そうに歪められた。いっそのこと、自分に呆れて、放っておいてくれないだろうか。もういいと怒って立ち去ってくれないだろうか。そうすれば、全部上手くいく気がしているのに。自分はこの不毛な恋心と下らない遊びを止められ、バーナビーは望み通りプライベートに干渉しない相棒を得られる。良いこと尽くめじゃないか。
 なのに、そんな虎徹の思いとは裏腹に、バーナビーは意を決したような表情でしっかりと虎徹を見据えて口を開いた。

「……あの男は、誰ですか。恋人、というようには見えませんでしたが 」

 予想外に直球な言葉に、思わず目を瞬かせた。なんだ、この、まるで不貞を責めているかのような物言いは。そう思ってしまった自分に自嘲がこみ上げる。
 本当に、つくづく俺は馬鹿だよなぁ。お前も、なんでそんな中途半端なことをするんだよ、バニー。俺のこと嫌いなら、拒絶するなら、もっとちゃんと勘違いする隙もないようにしてくれよ。
 喉の奥で暗い笑みを押し殺して、真っ直ぐ視線をぶつけてくる相棒を虎徹も見返した。

「お前にゃ関係ないだろ? なぁ、バニーちゃん」
「関係あります。不本意ですが、あなたと僕はパートナーなんです。あなたが何か仕出かせば、それは僕の評価にまで影響するんですから」
「"ただの仕事上のパートナーなんだから、プライベートにまで口出しするな"」
「……!」

 虎徹の言葉に、バーナビーが言葉を詰まらせる。その台詞に聞き覚えがあったのだろう。他でもない、バーナビー自身が虎徹に投げつけた言葉だ。その反応に不思議な満足感を覚えて、虎徹は少し表情を緩めた。

「まぁ、心配すんなよ。俺はお前と違って本名も素顔も知られてない訳だしさ。俺のしたことが、そう簡単にワイルドタイガーのスキャンダルに繋がることはねぇって」
「……」

 これで納得してくれはしないだろうかと微笑んでみたりしたが、バーナビーは相変わらず険しい表情のまま何かを考え込んでいる。虎徹の言葉も聞いているのかいないのか、判別に困るレベルだ。

「えっと……その、……だからさ、バニー」
「分かりました」
「へ」

 恐る恐るの呼びかけに被せるように言葉を発したバーナビーに呆気にとられる。強い決意を秘めた瞳を向けられて、不意に鼓動が高鳴った。そんな戸惑いも、続けられた言葉に全て吹っ飛ばされることになる。

「おじさん、僕と付き合って下さい」
「は……あああぁぁぁああ!!??」

 力の限りに叫ぶ虎徹にも、バーナビーは全く怯まない。その視線の強さと真剣な表情が、今の発言が冗談でも揶揄でもなく本気なのだと虎徹に伝えてくる。

「ちょ、どういうことだよ! 今そんな話してなかっただろ!!」
「ただの相棒ではプライベートに関わる権利がないというなら、それ以外の関係になれば良いだけです。違いますか?」
「だからって! なんで恋人なんだよ!? もっとこう、友人とかあるだろ!」
「友人では、"恋愛事にまで首突っ込む権利はない"とか言いそうでしたから」

 今度は虎徹が言葉に詰まる。正直、バーナビーの指摘は図星だった。態度でそれを雄弁に肯定してしまった虎徹には、それ以上の反論は許されなかった。
 瞳に真摯さを宿したまま、少しバーナビが表情を柔らかくした。それは、今まで一度も虎徹が見たことのない表情で、視線を奪われたまま逸らすことが出来ない。

「異論も反論も認めません。今日からおじさんは僕の恋人です」

 その声音は何処か温かさと甘さを含んでいて、強い眩暈に視界が揺れた。