すべて、嘘じゃないかもしれないけど、決して本当じゃない。
 それを忘れたら、勘違いしたら、傷付くのは自分だ。
04 ・ 偽りの恋人
 いつもより早く着いたオフィスのドアの前で、虎徹は深呼吸を繰り返していた。ドアノブに手を伸ばしては引っ込める、そんな動作を延々くり返している虎徹は、事情を知らない誰かが見れば立派に不審者だったが、幸か不幸かその廊下を誰かが通りかかることはなかった。
 ドアノブに手を伸ばそうとしても動かない自分の右手を叱咤するように、もう一回深呼吸したら開けるからな、次で最後だ、そんな言い訳を続けてもう何回になるだろうか。このままでは始業時間を迎えてしまう。
 いい加減に腹を括ろう。ノブを睨み付け、緊張で汗ばんだ手を伸ばす。

「いつまでそうしてるんですか? 僕まで遅刻の巻き添えは御免です」

 背後から聞こえた声に、虎徹は声にならない悲鳴を上げる。反射的に閉まったままのドアにしがみ付きながら背後を振り返ると、そこには呆れきった顔のバーナビーが立っていた。驚きのあまり言葉を発することすら出来ずにいる虎徹に近付くと、そのままノブを捻って開け、室内へと歩いていく。その間、茫然とその背を見送った虎徹に視線を寄越すどころか、そもそも虎徹の様子を気に掛けすらしない。
 ドアの前で立ち尽くす虎徹を動かしたのは、室内からその様子を見咎めたロイズの声だった。上司に不機嫌そうな声音で名を呼ばれれば、所詮サラリーマン、慌てて従うしかない。
 いくつか今日の予定の変更を告げて、ロイズはバーナビーを伴って部屋を後にした。確か今日は一日中バーナビーへの取材の予定が入っていたから、ロイズもそれに同行するのだろう。事務の女性も経理部の方に用事があるとかで席を外している。一人きりのヒーロー事業部のデスクに突っ伏して、虎徹は本日何度目になるか分からない溜息を零した。
 寝不足でぼんやりとした頭は、勝手に夕べから今朝の出来事を再生し始める。路地裏での出来事、そして―――

(今日からおじさんは僕の恋人です)

 不意に昨晩の彼の言葉が蘇った。一晩悩まされ続けた言葉とそれをどう受け取るかという困惑がまた脳内を駆け巡る。勢いよく顔を組んだ腕に沈めても、それが消える気配はない。
 一体、バーナビーはどういうつもりであの台詞を告げたのか。一晩かけても、虎徹にはさっぱり分からなかった。あの会話の流れなら、売り言葉に買い言葉、と解釈出来なくもない気もしたが、虎徹の中のバーナビー像がそれを否定する。バーナビーは意外と感情で動くところがあるが、それでもリスク計算はしっかりして言葉を選ぶくらいの理性を保っている。それにあの時のバーナビーは、何かを考え、何らかの思惑を持ってその言葉を口にしていた。その場の勢いという様子はなかった。
 そんな答えの見つからない問いに思い悩んでいたら、今のようにすっきりしない頭と心のまま朝を迎えてしまった。バーナビーにどう接したらいいのかすら答えが出ないままの虎徹の本心としては、会社など着たくはなかった。それでも正真正銘の崖っぷちヒーローとしては、そう簡単に休むことは出来ない。これ幸いと辞めさせられる訳にはいかないのだ。

 ことあるごとにクビの二文字をチラつかせてくる上司の顔を思い浮かべて、重い頭をどうにか持ち上げる。
 本当に、バーナビーは何を考えているのか。さっきの様子を見る限り、あの言葉を意識しているのは虎徹だけだ。バーナビーの態度はあまりにいつも通り過ぎて、昨晩の出来事全てが夢だったのではないかと思わせる。
 こんなに悩まされるくらいなら、いっそ全部夢であれば良かった。そうは思うが、夢ではないことなど虎徹自身が誰より分かっている。
 ぐるぐると回るばかりで何処にも辿り着かない思考を振り切るように、目の前のモニターのスイッチを入れた。幸いと言えるかは微妙だが、虎徹には早急に仕上げて提出しなければならない書類が溜まっている。考えても答えに辿り着けないなら、いっそ今は考えること自体を放棄しようと書類作成用のソフトを立ち上げた。


 不意に頭を支配する思考から逃れようと躍起になるあまり、提出期限までまだ日があるものまで処理していたら、ふと視線を向けた時計は終業時刻をとうに過ぎていた。そういえば、いくらか前に事務の女性にお疲れ様、と声をかけられた気もする。誰もいなくなったオフィスで凝り固まった身体を伸ばせば、ばきばきと嫌な音が響いた。
 山になっていた書類の嵩も相当減ったし、提出期限が迫っていたものは全て片付けた。もう良いだろう。これでしばらく書類作成に追われることはないと思えば、朝から抱え続けていた重い気持ちも幾分和らぐ。
 少し軽くなった心で、退社するべくデスク回りを大雑把に片付けていると、がちゃりとドアノブが回される音が虎徹の耳に届く。ロイズか警備の人間かと視線を向ければ、そこには見慣れてしまった金髪。

「車があったから、残っているのかと思って来たんですけど……やっぱりまだいたんですね」
「仕事してたんだよ! 悪いか!」

 お互い戸惑ったように息を詰めたのは一瞬だけ、ふっと吐息だけで笑いながらそんな言葉を吐かれ、反射的に虎徹は怒鳴り返す。そこには今の発言だけでなく、昨夜から悩まされ続けた苛立ちだとか慣れない事務仕事での疲れだとかが多分に混じっていたが、どれもバーナビー原因と言えないこともないのだから良いだろう。そう荒く息を吐き出し、止まっていた手の動きを再開して帰り支度を進める。

「……もう帰るんですか? 溜まっていた書類は、ちゃんと終わらせてあるんでしょうね」
「だっ! うるせぇな、終わらせたから帰ろうとしてんだよ! 文句あんのか!?」

 昨日は虎徹のことを恋人だとか勝手に宣言していた癖に、相変わらずの可愛げのない態度を取るバーナビーに何だか悔しくなってきて、その顔を睨み付ける。
 だが、当のバーナビーはそんな虎徹の態度に気分を害した様子もなく、何故か機嫌良さそうにその表情を緩めて笑みを浮かべた。そしてさらりと虎徹に爆弾を投下してみせる。

「じゃあ、良いですね。デート、しましょうか」
「……………は?」

 予想外の言葉に怒りも忘れ、素っ頓狂な声を上げた虎徹の腕をバーナビーは掴み、そのまま部屋を出てエレベーターへと向かう。反論どころか質問すら許さない空気を感じてしまった虎徹は、その手を振り解くことが出来ず、なすがままにされるしかなかった。



 慣れない高級車の助手席で、満腹になった身体を上質なシートに預けながら、虎徹は深く溜息を吐く。運転席に乗り込んだバーナビーは、そんな虎徹を見て呆れたような声を上げた。

「大丈夫ですか? 食べ過ぎなんですよ、あなたは」

 その言葉に適当な返事を返しながら、この溜息は誰の所為だと思っているのかと心中だけで毒づく。確かに今の溜息は満腹の所為もあるが、それだけではない。虎徹にも、ようやくバーナビーの意図が分かり始めてきたからだ。

 高そうなレストランの奥まった個室、豪華な料理、稀少な酒、見事な夜景。完璧なデートのようなものをセッティングしたバーナビーだが、当然虎徹に愛の言葉を囁いたりはしなかったし、触れてくることもなかった。にこやかな笑顔を虎徹に向けてはいたが、その笑顔はいつだったかヒーローTVの取材で見たようなマスコミ向けのものだった。となれば、答えは一つだ。
 昨日、バーナビーは虎徹を、自分の恋人だと言った。それは、ただの方便なのだ。実際にバーナビーがしているのはデートや恋人同士の逢瀬ではない。監視だ。虎徹が男遊びをしないように、バディヒーローの評判を傷付けることのないように見張っているのだ。
 その証拠に、バーナビーはこの店で一滴もアルコールを飲んでいない。虎徹を自宅まで車で送るのだと言って譲らなかった。なら、と虎徹も酒類を辞退しようとすれば、あなたは良いんですと次々酒を注がれた。つまりは、こうだ。会社からそのまま夕食に連れ出し、そこで酒を飲ませて潰した上で自宅に放り込んでしまえば、さすがにそこから遊び相手を探しに行くこともない。虎徹がスキャンダルを起こす可能性をなくせるということだ。

 そう思い至って、何だか苦しくなって。それを誤魔化すように料理とアルコールを胃に詰め込んだ結果がこれだ。訳が分からない、何のつもりだ、そう思いながらも自分は、愚かな期待を何処かでしてしまっていたらしい。嫌われていることは十分に知っていた癖に、馬鹿以外の何ものでもない。
 ふと視界に、窓ガラスに映った自分の顔が入る。それは流れる夜景とは対照的に情けないもので、見ていられなくて視線を伏せた。"もしかして"など、ある筈がない。それを無様に突きつけられた気分だった。

 俯いたままどれくらい経ったのか、無言の車内に響いていたエンジン音が不意に止まったことに気付いて、虎徹は顔を上げた。そこはもう自分のアパートの前で、停車させたバーナビーがハザードランプに手を伸ばしていた。
 はっとして、ばたばたと自身に巻きついていたシートベルトを外すと、そのままの勢いで車外へと飛び出る。

「ちょっ……おじさん!」

 油断していたのだろう、反射的に伸ばされたバーナビーの手は虎徹を捉えることなく空を切る。代わりとばかりに慌てたようなバーナビーの声音が背中に掛けられたが、それに振り返ることはせずに自宅のノブに手をかける。鍵を開けて中へと身体を滑り込ませる瞬間、ちらりとバーナビーと視線を合わせ、口元だけで礼を告げた。
 そのままドアと鍵を閉め、ずるずるとへたり込む。いくらかの間があってから聞こえたエンジン音が遠くなっていくのを確認して、ようやく息を吐いた。震えそうになる吐息を喉の奥に押し込んで、薄暗い自宅の天井を見上げる。

 なんなんだ、もう。やめてくれ、放っておいてくれ。ちゃんと分かってるから。だから。

 みっともなく泣き出してしまいそうな自身を叱咤して、どうにか靴と服を脱ぎ捨ててベッドに飛び込む。
 自分が引き起こしたことだとか、どうでも良かった。もう何も考えたくなかった。 せめて今夜だけでも、何も考えずに眠りにつきたかった。