泣きそうに歪んだ笑顔。
それが自分の一言で絶望に染まった瞬間を、僕は忘れられないでいる。
ただそれだけのことに内心胸を撫で下ろしていると、背後から口笛が響いた。振り返ると、そこには妙な形の髭を生やし、アイパッチで目元を隠した男が立っている。だがそれに驚くことはしない。何故なら、この男は自分の帰路の同伴者だからだ。怪我をしていたり泥酔状態にあったりする訳ではないバーナビーが、自宅へ帰るのに他人を伴っているのは、決してこの男を自宅に招いたからではない。
「へえ、本当にこういうことは全部憶えてんだな」
特に感慨もなく男が呟く。そう、これこそがバーナビーが一人で帰宅することを許されなかった理由だ。
全く自覚がないが、自分は現在記憶喪失の身らしい、からだ。
自分の名前や生年月日、経歴、交友関係、仕事、また社会的エピソードなど、所謂"記憶"は全て思い出すことが出来る。それは自宅であるこのマンションにきちんと帰り着き、セキュリティロックを解除出来たことからも証明されている。バーナビーにしてみれば、あなた記憶喪失になっています、と言われたところで何かの間違いとしか思えない。
では何を忘れているのかというと――――
「どうした? 入らねぇの?」
目の前のこの男、鏑木・T・虎徹と名乗ったこの男のことだ。
ワイルドタイガーの正体だというこの男のことを、バーナビーは一切思い出せない。"ワイルドタイガー"のことは思い出せる。ヒーロー界初のバディヒーローの片割れで自身の相棒だ。だが、"ワイルドタイガー"の正体、素顔となると記憶が曖昧になる。何度も目にし耳にしていた筈なのに、その顔も声も霞がかったようになって思い出せないでいる。
ことの起こりは一昨日だ。夕方にかかったエマージェンシーコールで、ヒーロー達はテロリストのアジトになっているという廃ビルを取り囲んでいた。爆弾を所持しているという情報があったため、近接戦を得意とし機動力もあるタイガー&バーナビーが先行してビルに侵入し、爆弾の確保をした後で他のヒーロー達が突入するという作戦だった。
だが、潜入中に予想外の事態が起きた。テロリスト達が仲間割れをしていたのだ。しかも、そのうちの一人は爆弾を手にして興奮状態にあった。他のヒーロー達には申し訳ないが、先にテロリストたちを拘束してしまおうと判断した矢先、爆弾が暴発した。
幸い小型のものだったらしく、爆弾を手にしていた男以外は一命を取り留めたが、爆発した場所が悪かった。老朽化していたビルは爆発の衝撃に耐えきれず、倒壊を始めたのだ。テロリスト達は倒壊前にビルの窓からスカイハイに預けられ、ワイルドタイガーはぎりぎりでバーナビーによって窓から投げ出されたところをロックバイソンによって受け止められた。だが、脱出が間に合わず取り残されたバーナビーは、一人瓦礫の下敷きになったのだ。
そのときの衝撃や怪我が原因で記憶喪失になっているというのが、医者とアニエスから説明された内容だ。この男のこと以外では、唯一この出動中の記憶が曖昧になっているが、大きな事故に巻き込まれた前後の記憶が思い出せないというのはままあることなので、バーナビーが忘れている事項は"鏑木・T・虎徹"に関することのみ、と結論付けられた。
いきなり見知らぬ人間がバディだと言われて当然バーナビーは混乱したが、ヒーロー達の治療を一手に引き受けている医者や他のヒーロー仲間、ヒーローTV関係者、上司のロイズまでもが虎徹がワイルドタイガーだと証言するのだ。ワイルドタイガーの正体が誰だか分からないバーナビーがそれ以上反論出来よう筈もない。
今日になってようやく精密検査で問題なしとの結果を得て退院を許された訳だが、他にも記憶の抜け落ちがあるといけないからとロイズの指示で家まで虎徹を伴うことになってしまった。そして今に至る。
緊急だった上、たった一日の入院では特に荷物もない。手ぶらのまま自宅のドアを潜り、何歩か歩いてから振り向いて――――虎徹が未だドアの外に立ったままであることに気付いた。
何をしているのかと怪訝に思って首を傾げながら声をかける。
「どうしたんですか」
「いや、どうしたってお前……ちゃんと別れの挨拶して、ドア閉めるくらいはしろよ。帰っていいのか迷うだろ」
「――――え」
アイパッチの所為で表情が読み辛いが、それでも困ったような表情をしている虎徹から向けられた言葉にバーナビーは戸惑った。
そうだ、虎徹がロイズから言われたのは、バーナビーを自宅まで送り届けることだけだ。ましてや、記憶喪失であろうと何の問題もないことはバーナビー自身が体現してみせたのだ。なのにどうして自分は、当然のように虎徹が家に寄っていくと思っていたのだろう。
「――――っ、す、いません……わざわざありがとう、ございました」
「おう。何かあったら、ちゃんと斉藤さんとロイズさんに連絡しろよ」
踵を返しながらひらりと振られた手。遠ざかっていく背中を見送って、ようやくバーナビーは玄関のドアを閉めた。動揺からか、心臓が早鐘を打っている。
何故、自分は彼を自室に招き入れる気だったのか。何故、振り返らない後姿を呼び止めたくなったのだろう。分からない。バーナビーとあの男は仕事上のパートナー、ただそれだけの筈なのに。
バーナビーが病床で目を覚ましたとき、ベッド脇に付き添っていたのは虎徹だった。見憶えのない男に名前を尋ねれば、蒼白になった彼は慌てて医者を呼びに行った。バーナビーが医者の問診を受けている間中硬い表情でいた虎徹は、自身に関することのみの記憶喪失と診断が出ると、大きく溜息を吐いた。そして、感情の窺えない表情で言ったのだ。
それだけなら問題ねぇな、と。
改めてバーナビーに名乗った虎徹は、無表情のまま続けた。
俺とお前は仕事上のパートナーで、それ以上でも以下でもない。仕事に支障が出ないなら、別に今までのことなんて憶えていなくても構わない。そもそも、プライベートでの付き合いなんてなかったんだから、思い出さなきゃいけないほどのことはない。
その言葉を聞いて、自分は相棒であるワイルドタイガーと自分の理想とする関係を築けていたのだと思った。関わり合うのは仕事上だけ、お互いのプライベートに踏み込まない。
だから、特別な事情もないのに彼がこの部屋に立ち入ることはないと分かっていた筈だった。
それでも、と思ってしまうのは、あの日虎徹が見せた表情がバーナビーの脳裏から離れないからだ。目が覚めて一番に飛び込んできた、涙を瞳一杯に溜めた安堵に緩んだ笑顔。そしてバーナビーに名を問われたときの、絶望に染まった瞳と強張った表情。
バーナビーと虎徹が、本当に彼が言うような関係だったというなら、あれは何だったのだろうか。
軽く頭を振って深く息を吐く。いい加減馬鹿なことを考えるのは終わりにするべきだ。きっとあれは、バディでありながらバーナビー一人を怪我させてしまった所為もあったのだろう。その証拠に、と帰り際の虎徹の台詞を思い出す。
(何かあったら、ちゃんと斉藤さんとロイズさんに連絡しろよ)
頭の中で響いた声に、PDAの嵌った左手首を右手で握り締める。バーナビーに何かあったとき、助けを求めていい相手に彼は含まれていないのだ。その事実にどうしようもない空虚感を抱いた自分には気付かない振りをした。
それが自分の一言で絶望に染まった瞬間を、僕は忘れられないでいる。
01 ・ 知らない筈の、そのひと
"いつも通り"に記憶している暗証番号をタッチし、最後に指紋認証パネルに指を押し付ける。それだけで目の前の扉は小さな音と共に簡単に開いた。ただそれだけのことに内心胸を撫で下ろしていると、背後から口笛が響いた。振り返ると、そこには妙な形の髭を生やし、アイパッチで目元を隠した男が立っている。だがそれに驚くことはしない。何故なら、この男は自分の帰路の同伴者だからだ。怪我をしていたり泥酔状態にあったりする訳ではないバーナビーが、自宅へ帰るのに他人を伴っているのは、決してこの男を自宅に招いたからではない。
「へえ、本当にこういうことは全部憶えてんだな」
特に感慨もなく男が呟く。そう、これこそがバーナビーが一人で帰宅することを許されなかった理由だ。
全く自覚がないが、自分は現在記憶喪失の身らしい、からだ。
自分の名前や生年月日、経歴、交友関係、仕事、また社会的エピソードなど、所謂"記憶"は全て思い出すことが出来る。それは自宅であるこのマンションにきちんと帰り着き、セキュリティロックを解除出来たことからも証明されている。バーナビーにしてみれば、あなた記憶喪失になっています、と言われたところで何かの間違いとしか思えない。
では何を忘れているのかというと――――
「どうした? 入らねぇの?」
目の前のこの男、鏑木・T・虎徹と名乗ったこの男のことだ。
ワイルドタイガーの正体だというこの男のことを、バーナビーは一切思い出せない。"ワイルドタイガー"のことは思い出せる。ヒーロー界初のバディヒーローの片割れで自身の相棒だ。だが、"ワイルドタイガー"の正体、素顔となると記憶が曖昧になる。何度も目にし耳にしていた筈なのに、その顔も声も霞がかったようになって思い出せないでいる。
ことの起こりは一昨日だ。夕方にかかったエマージェンシーコールで、ヒーロー達はテロリストのアジトになっているという廃ビルを取り囲んでいた。爆弾を所持しているという情報があったため、近接戦を得意とし機動力もあるタイガー&バーナビーが先行してビルに侵入し、爆弾の確保をした後で他のヒーロー達が突入するという作戦だった。
だが、潜入中に予想外の事態が起きた。テロリスト達が仲間割れをしていたのだ。しかも、そのうちの一人は爆弾を手にして興奮状態にあった。他のヒーロー達には申し訳ないが、先にテロリストたちを拘束してしまおうと判断した矢先、爆弾が暴発した。
幸い小型のものだったらしく、爆弾を手にしていた男以外は一命を取り留めたが、爆発した場所が悪かった。老朽化していたビルは爆発の衝撃に耐えきれず、倒壊を始めたのだ。テロリスト達は倒壊前にビルの窓からスカイハイに預けられ、ワイルドタイガーはぎりぎりでバーナビーによって窓から投げ出されたところをロックバイソンによって受け止められた。だが、脱出が間に合わず取り残されたバーナビーは、一人瓦礫の下敷きになったのだ。
そのときの衝撃や怪我が原因で記憶喪失になっているというのが、医者とアニエスから説明された内容だ。この男のこと以外では、唯一この出動中の記憶が曖昧になっているが、大きな事故に巻き込まれた前後の記憶が思い出せないというのはままあることなので、バーナビーが忘れている事項は"鏑木・T・虎徹"に関することのみ、と結論付けられた。
いきなり見知らぬ人間がバディだと言われて当然バーナビーは混乱したが、ヒーロー達の治療を一手に引き受けている医者や他のヒーロー仲間、ヒーローTV関係者、上司のロイズまでもが虎徹がワイルドタイガーだと証言するのだ。ワイルドタイガーの正体が誰だか分からないバーナビーがそれ以上反論出来よう筈もない。
今日になってようやく精密検査で問題なしとの結果を得て退院を許された訳だが、他にも記憶の抜け落ちがあるといけないからとロイズの指示で家まで虎徹を伴うことになってしまった。そして今に至る。
緊急だった上、たった一日の入院では特に荷物もない。手ぶらのまま自宅のドアを潜り、何歩か歩いてから振り向いて――――虎徹が未だドアの外に立ったままであることに気付いた。
何をしているのかと怪訝に思って首を傾げながら声をかける。
「どうしたんですか」
「いや、どうしたってお前……ちゃんと別れの挨拶して、ドア閉めるくらいはしろよ。帰っていいのか迷うだろ」
「――――え」
アイパッチの所為で表情が読み辛いが、それでも困ったような表情をしている虎徹から向けられた言葉にバーナビーは戸惑った。
そうだ、虎徹がロイズから言われたのは、バーナビーを自宅まで送り届けることだけだ。ましてや、記憶喪失であろうと何の問題もないことはバーナビー自身が体現してみせたのだ。なのにどうして自分は、当然のように虎徹が家に寄っていくと思っていたのだろう。
「――――っ、す、いません……わざわざありがとう、ございました」
「おう。何かあったら、ちゃんと斉藤さんとロイズさんに連絡しろよ」
踵を返しながらひらりと振られた手。遠ざかっていく背中を見送って、ようやくバーナビーは玄関のドアを閉めた。動揺からか、心臓が早鐘を打っている。
何故、自分は彼を自室に招き入れる気だったのか。何故、振り返らない後姿を呼び止めたくなったのだろう。分からない。バーナビーとあの男は仕事上のパートナー、ただそれだけの筈なのに。
バーナビーが病床で目を覚ましたとき、ベッド脇に付き添っていたのは虎徹だった。見憶えのない男に名前を尋ねれば、蒼白になった彼は慌てて医者を呼びに行った。バーナビーが医者の問診を受けている間中硬い表情でいた虎徹は、自身に関することのみの記憶喪失と診断が出ると、大きく溜息を吐いた。そして、感情の窺えない表情で言ったのだ。
それだけなら問題ねぇな、と。
改めてバーナビーに名乗った虎徹は、無表情のまま続けた。
俺とお前は仕事上のパートナーで、それ以上でも以下でもない。仕事に支障が出ないなら、別に今までのことなんて憶えていなくても構わない。そもそも、プライベートでの付き合いなんてなかったんだから、思い出さなきゃいけないほどのことはない。
その言葉を聞いて、自分は相棒であるワイルドタイガーと自分の理想とする関係を築けていたのだと思った。関わり合うのは仕事上だけ、お互いのプライベートに踏み込まない。
だから、特別な事情もないのに彼がこの部屋に立ち入ることはないと分かっていた筈だった。
それでも、と思ってしまうのは、あの日虎徹が見せた表情がバーナビーの脳裏から離れないからだ。目が覚めて一番に飛び込んできた、涙を瞳一杯に溜めた安堵に緩んだ笑顔。そしてバーナビーに名を問われたときの、絶望に染まった瞳と強張った表情。
バーナビーと虎徹が、本当に彼が言うような関係だったというなら、あれは何だったのだろうか。
軽く頭を振って深く息を吐く。いい加減馬鹿なことを考えるのは終わりにするべきだ。きっとあれは、バディでありながらバーナビー一人を怪我させてしまった所為もあったのだろう。その証拠に、と帰り際の虎徹の台詞を思い出す。
(何かあったら、ちゃんと斉藤さんとロイズさんに連絡しろよ)
頭の中で響いた声に、PDAの嵌った左手首を右手で握り締める。バーナビーに何かあったとき、助けを求めていい相手に彼は含まれていないのだ。その事実にどうしようもない空虚感を抱いた自分には気付かない振りをした。
Back