あなたがいないなら、意味がない。
だから、最期まで。
長政らしい、迷いのないはっきりとした声音で告げられた言葉に、市は膝の上にある自身の両手を握った。
白さが増す手を見て長政が僅かに表情を歪めるが、視線を落したままの市は気付かない。
帰れと。実家に帰れ、と。いつか夫の口から告げられるだろうと、市は嫁いだときから思っていた。
呪われた、魔王と同じ血をひく自分。陰気で笑うことはなく、泣いてばかりの自分。対する夫は、幼い頃から周囲に期待されるほどの才覚を持ち、その期待に違わず若くして一国を見事に治める、光のような人物。
厭われる理由など、いくらでもあった。
だから、いつかこの言葉を聞く日も無感情に受け入れられるだろうと思っていた。
そしてまた尾張に戻るのだろうと。
そんな市の想像を、ことごとく長政は覆した。市の態度に苛立ち声を荒げても、長政は市と向き合うことを止めなかった。理解しようと努め、距離を縮めようとした。
もしかしたら、あの言葉を長政が自分に告げることはないかもしれない。ずっと傍に居させてもらえるかもしえない。そう市が思い始めていた中での通告だった。
「………嫌」
常にないほどきっぱりと返した市に、長政が眼を見張る。
向けられた真っ直ぐな市の視線にたじろぐように視線を彷徨わせた。
「市はもう、死ぬのは嫌なの。・・・・・だから、帰らないわ」
「何を言っている。如何な兄者でも、実の妹である市を無碍に殺したりはしないだろう」
「……そうじゃない、………そうじゃ、ないの」
先程の長政の、実家に帰れという言葉。
当然、嫁ぐときに思っていたように無感情に受け入れることは出来ず、市の心は動揺した。しかし、それは長政に見捨てられたが故ではない。この目の前の人が、市が思っている以上に自分を想ってくれていたという事実故にだ。
迫りくる織田の大軍。浅井は数の上では圧倒的に不利であり、他からの援軍も期待出来ない。これは元々織田が同盟を反故にしたから起こった戦であり、人質として嫁いできた市は、不義を嫌う長政に切り捨てられてもおかしくない状況だ。
だが、長政はそうせず、実家に帰れと告げた。負けが目に見えている浅井から、攻め寄せてくる織田へと。長政は、市をこの戦に巻き込まないために言ったのだ。市が考えていたように厭うた結果ではなく、市を、死なせないために。
ならば、市は言わなくてはならない。
何度でも、理解してもらえるまで。
「……市は、長政さまにお会いするまで、……生きてなんか、なかったの」
呟くように零した言葉に長政が眉根を寄せる。意味が分からない、という表情。だが口を挟む気はないのか、その唇は一文字に結ばれたままだ。
だから、市は続ける。少しでも、この想いが目の前の人に届くように。
「……誰も市を見なかった。市も誰も見ていなかった。市はいないのと同じだったの。……死んでいるのと同じだったの」
思い出される遠い日々。
遠巻きに存在する人々。手を擦り抜けていくような日常。全てが薄紙一枚隔てた向こうに存在しているようだった。
それで良いと思っていた。自分に関われば不幸になるから。怨嗟の声を聞くくらいなら、誰とも関わらない方が気が楽だった。
でも。
「……長政さまに会って、初めて市を真っ直ぐ見てくれる人に会って……市は生き返ったの」
初めて感じた、強い真っ直ぐな視線。自分が生きて、ここに存在しているのだと感じさせてくれた人。
その人から離れてしまったら、市はまた死んでしまう。いないのと同じに、なってしまう。
そんなのは、もう嫌なのだ。
「市は、長政様の妻なの。……ずっと、死ぬまでずっと、妻でいるわ」
だから、織田には帰らない。
そう告げて真っ直ぐに長政を見つめる。
こんなにもしっかりと妻の顔を見たのは初めてのような気がして、長政は視線を逸らすことが出来なかった。
初めて示された市の強固な意志。
いや、初めてではない。市はいつだって自分の傍にいたがった。長政に怒られようと、涙を流そうと、常に後ろを歩いてきた。
だから最期まで、というのか。自分にそんな価値はない、市が命を懸けて付き従う理由などない。
そう言葉を紡ごうとするのを市の視線が阻止する。
どうにか視線を落とすと、長政は大きく溜め息を吐く。
市の視線はまだ外れない。そのことにもう一度溜息を吐いた。
「・・・・・・聞き分けのないことを言うな、・・・・・・と言っても無駄なようだな」
そう言って立ち上がると、足を部屋の外へと向ける。
障子を開き、外の空気を吸い込んで、吐いて。腹を括って告げる。
「・・・・・・・好きにしろ」
夫なのだから、お前の命を最後まで背負ってやる。
この命が続く限りは。
背にかけられた市からの礼の言葉は、これからのことを思えば到底受け取れるものではなかった。
だから、最期まで。
斜陽
「尾張に……織田に帰れ」長政らしい、迷いのないはっきりとした声音で告げられた言葉に、市は膝の上にある自身の両手を握った。
白さが増す手を見て長政が僅かに表情を歪めるが、視線を落したままの市は気付かない。
帰れと。実家に帰れ、と。いつか夫の口から告げられるだろうと、市は嫁いだときから思っていた。
呪われた、魔王と同じ血をひく自分。陰気で笑うことはなく、泣いてばかりの自分。対する夫は、幼い頃から周囲に期待されるほどの才覚を持ち、その期待に違わず若くして一国を見事に治める、光のような人物。
厭われる理由など、いくらでもあった。
だから、いつかこの言葉を聞く日も無感情に受け入れられるだろうと思っていた。
そしてまた尾張に戻るのだろうと。
そんな市の想像を、ことごとく長政は覆した。市の態度に苛立ち声を荒げても、長政は市と向き合うことを止めなかった。理解しようと努め、距離を縮めようとした。
もしかしたら、あの言葉を長政が自分に告げることはないかもしれない。ずっと傍に居させてもらえるかもしえない。そう市が思い始めていた中での通告だった。
「………嫌」
常にないほどきっぱりと返した市に、長政が眼を見張る。
向けられた真っ直ぐな市の視線にたじろぐように視線を彷徨わせた。
「市はもう、死ぬのは嫌なの。・・・・・だから、帰らないわ」
「何を言っている。如何な兄者でも、実の妹である市を無碍に殺したりはしないだろう」
「……そうじゃない、………そうじゃ、ないの」
先程の長政の、実家に帰れという言葉。
当然、嫁ぐときに思っていたように無感情に受け入れることは出来ず、市の心は動揺した。しかし、それは長政に見捨てられたが故ではない。この目の前の人が、市が思っている以上に自分を想ってくれていたという事実故にだ。
迫りくる織田の大軍。浅井は数の上では圧倒的に不利であり、他からの援軍も期待出来ない。これは元々織田が同盟を反故にしたから起こった戦であり、人質として嫁いできた市は、不義を嫌う長政に切り捨てられてもおかしくない状況だ。
だが、長政はそうせず、実家に帰れと告げた。負けが目に見えている浅井から、攻め寄せてくる織田へと。長政は、市をこの戦に巻き込まないために言ったのだ。市が考えていたように厭うた結果ではなく、市を、死なせないために。
ならば、市は言わなくてはならない。
何度でも、理解してもらえるまで。
「……市は、長政さまにお会いするまで、……生きてなんか、なかったの」
呟くように零した言葉に長政が眉根を寄せる。意味が分からない、という表情。だが口を挟む気はないのか、その唇は一文字に結ばれたままだ。
だから、市は続ける。少しでも、この想いが目の前の人に届くように。
「……誰も市を見なかった。市も誰も見ていなかった。市はいないのと同じだったの。……死んでいるのと同じだったの」
思い出される遠い日々。
遠巻きに存在する人々。手を擦り抜けていくような日常。全てが薄紙一枚隔てた向こうに存在しているようだった。
それで良いと思っていた。自分に関われば不幸になるから。怨嗟の声を聞くくらいなら、誰とも関わらない方が気が楽だった。
でも。
「……長政さまに会って、初めて市を真っ直ぐ見てくれる人に会って……市は生き返ったの」
初めて感じた、強い真っ直ぐな視線。自分が生きて、ここに存在しているのだと感じさせてくれた人。
その人から離れてしまったら、市はまた死んでしまう。いないのと同じに、なってしまう。
そんなのは、もう嫌なのだ。
「市は、長政様の妻なの。……ずっと、死ぬまでずっと、妻でいるわ」
だから、織田には帰らない。
そう告げて真っ直ぐに長政を見つめる。
こんなにもしっかりと妻の顔を見たのは初めてのような気がして、長政は視線を逸らすことが出来なかった。
初めて示された市の強固な意志。
いや、初めてではない。市はいつだって自分の傍にいたがった。長政に怒られようと、涙を流そうと、常に後ろを歩いてきた。
だから最期まで、というのか。自分にそんな価値はない、市が命を懸けて付き従う理由などない。
そう言葉を紡ごうとするのを市の視線が阻止する。
どうにか視線を落とすと、長政は大きく溜め息を吐く。
市の視線はまだ外れない。そのことにもう一度溜息を吐いた。
「・・・・・・聞き分けのないことを言うな、・・・・・・と言っても無駄なようだな」
そう言って立ち上がると、足を部屋の外へと向ける。
障子を開き、外の空気を吸い込んで、吐いて。腹を括って告げる。
「・・・・・・・好きにしろ」
夫なのだから、お前の命を最後まで背負ってやる。
この命が続く限りは。
背にかけられた市からの礼の言葉は、これからのことを思えば到底受け取れるものではなかった。
ちょっぴり史実もどき。小谷城攻めのちょっと前な感じで!
史実ではお市は織田に帰っちゃうんですけど、これでは帰ってくれませんでした(何)。
史実ではお市は織田に帰っちゃうんですけど、これでは帰ってくれませんでした(何)。