いかないで。いかないで。
そう、泣いて、叫んで。
貴方を引き止められるなら、悪魔に魂を売っても構わなかった。
ゆっくり眼を開くと、そこにはあの猫が居た。
「お前……」
壁を壊してきたのだろうか。乗り越えて? いや、それはどちらでもいい。
見たところ、猫の身体に傷はなく、安堵の息をつく。
ふと気が付く。
敵は。
がばっと身体を起こすと、まだ頭が痛んだが、そんなことを気にしている場合じゃない。自分の周りに起こっていた炎はすでに鎮火していて、他にも燻っている程度の炎しかない。そして、その僅かな炎に照らされているのは、自分が目にしたより多くの敵の倒れている姿。
恐らく、自分が気を失った後に敵の救援部隊がやってきたのだろう。倒れている身体の全てに炎に包まれた跡があり、もう誰一人として息をしていないだろうことが知れた。
その光景に、「イシュバールの英雄」という言葉が重なる。
これが、大佐の心中に燻り続けていたものなのだろう。割り切ろうとしたが割り切れず、心の一番深いところに封じた記憶。それを、自分を助けるため、それだけのために。
「 ―――――― っっ」
倒れている人の中に蒼い軍服はなかった。大佐は何処かにいる。……探さなくては。
痛む頭を抑えて立ち上がる。俯いた視界に、自分の足元に擦り寄る猫が見えた。こんなに小さいこいつだって、こうやって無事にいる。だから、だから。大佐だって。
木を支えにして一歩ずつ戦場を進んでいく。身体はふらつくし、頭だって割れるように痛む。頭は殴られた所為だろうが、ふらつくのは、多分、身体の何処かから派手に出血しているからだろう。
なのに怪我の痛みは全く感じない。痛覚が麻痺している訳じゃない。痛みなどより別のことに脳が支配されているからだ。ただ、あの人の姿を求めて。
顔を顰めながら、それでもしっかりと視線だけで遺体を検分していく。月が雲で覆われているために、明かりといったらあちこちに残っている僅かな炎だけだったが、それでも充分な程に、身体の損傷具合でどれほど激しい戦闘だったかが分かってしまう。
屍の山の中に見慣れた軍服がないことに安堵する一方で、倒れている人の多さに、少しずつ不安が沸きあがってくる。
まさか、まさか。自分に言い聞かせる。
大丈夫だ、大丈夫だ。そう、思い込もうとする。
そのとき、薄暗かった視界に、急に柔らかな光が差し込んできた。空を仰ぐと、月を覆っていた雲が切れ、その光が降ってきていた。これで探しやすくなる、と視線を空から戻すと、少し離れたところにぼんやりとした薄明かりが見えた。
大佐かもしれない。
そう思ったら身体が勝手に動いていた。
早く、あの場所へ。大佐が、いるかもしれないんだ。
明かりを目指していくと、あの一本だけ咲いていた山櫻の前の広場に出た。どうやら、この薄明かりはその山桜のものらしい。どうしてなのかは分からないが、僅かに櫻の花自体が発光しているようだった。
そして、その木の前に、こちらに背を向ける格好で立っているのは。見慣れた軍服と見慣れた黒い髪。
大佐、と呼ぼうとした瞬間。
大佐が振り返って、その発火布に包まれた指を鳴らす。音と共に起こった火炎球は、顔の横を掠め、背後へと消えていった。
その、大佐の余りに冷たい視線に、射られたかのように動けなくて。視線だけでこんなにも圧倒される。
これが、「英雄」。
膠着していた二人の間で、にゃぁ、と一声響いた。足元にいた猫が鳴いていた。ついて来ていたらしい。
その声に、大佐がはっとしたようになって。視界に自分と猫を捕らえて。驚いたように見開かれた目が、緩く細められて。真っ直ぐ引き結ばれていた口元が、柔らかく緩められて。
そして、支える糸を失ったマリオネットのように。
ゆっくり、地面へと伏した。
目の前で何が起きたか、理解できなくて。理解、したくなくて。
ただ、ふらふらと大佐の方に歩み寄る。
「……大佐………?」
声が掠れる。倒れている大佐の脇に膝をついて、抱き起こそうと手を伸ばして、その身体から流れる、血の量の多さに言葉を失った。
今まで立って ――――――戦っていたことが、不思議なほどの怪我。血液は止め処なく、服に、地面に、広がってゆく。
――― 少しでも、医学なんて勉強するんじゃなかった。
そうしたら、もしかしたら、なんて。助かるかもしれない、なんて。
そう、思えたかもしれないのに。
「―――――― っ………何でっ……何でだよ!!!!!」
誰に対して、何に対しての問いなのか。自分でも良く分からなかったけれど。ただ、答えが欲しかった。どうしてこんなことになったのか。何が悪かったのか。誰かに、何かに答えて欲しかった。
叫びに応えるように、大佐が俯けていた身体を仰向けに起こした。何処か焦点がずれて見える大佐の瞳は、それでも自分の方に向けられていて。その表情は、何処までも穏やかで。薄く微笑んだ顔に、一枚、二枚、頭上から櫻の花弁が降り注ぐ。
最期なのだから。
大佐は自分のこととなると、何処までも心配性だから。安心させてやらないと、と。笑わないと、と。大丈夫と言わないと、と。そう、思うのに。
どうしても涙は止まらなくて。<馬鹿みたいに「何で」、と繰り返すだけで。
――― どうしようもなくて。
涙に歪んだ視界に、大佐の口が動いた気がして。
殆ど声の出ていないその口元に、顔を寄せると。
血に塗れた手で、そっと頬に触れて。
「―――――― 君、を……守れて………良かっ、…た……」
そう、呟いて。
力の入らなくなった、その手は。
音もなく、地面へと落ちた。
「……あ……」
大佐が。
「………ぁ……ぁ…あ……」
大佐、が。
「……ぁ………ぁあ……」
―――― 死んだ。
「あぁあああぁぁあぁぁああぁぁぁぁぁああぁ!!!!!!!!!!!」
そう、泣いて、叫んで。
貴方を引き止められるなら、悪魔に魂を売っても構わなかった。
05 ・ 染まる花弁
ぺろ、と何かが頬を舐める感触。ゆっくり眼を開くと、そこにはあの猫が居た。
「お前……」
壁を壊してきたのだろうか。乗り越えて? いや、それはどちらでもいい。
見たところ、猫の身体に傷はなく、安堵の息をつく。
ふと気が付く。
敵は。
がばっと身体を起こすと、まだ頭が痛んだが、そんなことを気にしている場合じゃない。自分の周りに起こっていた炎はすでに鎮火していて、他にも燻っている程度の炎しかない。そして、その僅かな炎に照らされているのは、自分が目にしたより多くの敵の倒れている姿。
恐らく、自分が気を失った後に敵の救援部隊がやってきたのだろう。倒れている身体の全てに炎に包まれた跡があり、もう誰一人として息をしていないだろうことが知れた。
その光景に、「イシュバールの英雄」という言葉が重なる。
これが、大佐の心中に燻り続けていたものなのだろう。割り切ろうとしたが割り切れず、心の一番深いところに封じた記憶。それを、自分を助けるため、それだけのために。
「 ―――――― っっ」
倒れている人の中に蒼い軍服はなかった。大佐は何処かにいる。……探さなくては。
痛む頭を抑えて立ち上がる。俯いた視界に、自分の足元に擦り寄る猫が見えた。こんなに小さいこいつだって、こうやって無事にいる。だから、だから。大佐だって。
木を支えにして一歩ずつ戦場を進んでいく。身体はふらつくし、頭だって割れるように痛む。頭は殴られた所為だろうが、ふらつくのは、多分、身体の何処かから派手に出血しているからだろう。
なのに怪我の痛みは全く感じない。痛覚が麻痺している訳じゃない。痛みなどより別のことに脳が支配されているからだ。ただ、あの人の姿を求めて。
顔を顰めながら、それでもしっかりと視線だけで遺体を検分していく。月が雲で覆われているために、明かりといったらあちこちに残っている僅かな炎だけだったが、それでも充分な程に、身体の損傷具合でどれほど激しい戦闘だったかが分かってしまう。
屍の山の中に見慣れた軍服がないことに安堵する一方で、倒れている人の多さに、少しずつ不安が沸きあがってくる。
まさか、まさか。自分に言い聞かせる。
大丈夫だ、大丈夫だ。そう、思い込もうとする。
そのとき、薄暗かった視界に、急に柔らかな光が差し込んできた。空を仰ぐと、月を覆っていた雲が切れ、その光が降ってきていた。これで探しやすくなる、と視線を空から戻すと、少し離れたところにぼんやりとした薄明かりが見えた。
大佐かもしれない。
そう思ったら身体が勝手に動いていた。
早く、あの場所へ。大佐が、いるかもしれないんだ。
明かりを目指していくと、あの一本だけ咲いていた山櫻の前の広場に出た。どうやら、この薄明かりはその山桜のものらしい。どうしてなのかは分からないが、僅かに櫻の花自体が発光しているようだった。
そして、その木の前に、こちらに背を向ける格好で立っているのは。見慣れた軍服と見慣れた黒い髪。
大佐、と呼ぼうとした瞬間。
大佐が振り返って、その発火布に包まれた指を鳴らす。音と共に起こった火炎球は、顔の横を掠め、背後へと消えていった。
その、大佐の余りに冷たい視線に、射られたかのように動けなくて。視線だけでこんなにも圧倒される。
これが、「英雄」。
膠着していた二人の間で、にゃぁ、と一声響いた。足元にいた猫が鳴いていた。ついて来ていたらしい。
その声に、大佐がはっとしたようになって。視界に自分と猫を捕らえて。驚いたように見開かれた目が、緩く細められて。真っ直ぐ引き結ばれていた口元が、柔らかく緩められて。
そして、支える糸を失ったマリオネットのように。
ゆっくり、地面へと伏した。
目の前で何が起きたか、理解できなくて。理解、したくなくて。
ただ、ふらふらと大佐の方に歩み寄る。
「……大佐………?」
声が掠れる。倒れている大佐の脇に膝をついて、抱き起こそうと手を伸ばして、その身体から流れる、血の量の多さに言葉を失った。
今まで立って ――――――戦っていたことが、不思議なほどの怪我。血液は止め処なく、服に、地面に、広がってゆく。
――― 少しでも、医学なんて勉強するんじゃなかった。
そうしたら、もしかしたら、なんて。助かるかもしれない、なんて。
そう、思えたかもしれないのに。
「―――――― っ………何でっ……何でだよ!!!!!」
誰に対して、何に対しての問いなのか。自分でも良く分からなかったけれど。ただ、答えが欲しかった。どうしてこんなことになったのか。何が悪かったのか。誰かに、何かに答えて欲しかった。
叫びに応えるように、大佐が俯けていた身体を仰向けに起こした。何処か焦点がずれて見える大佐の瞳は、それでも自分の方に向けられていて。その表情は、何処までも穏やかで。薄く微笑んだ顔に、一枚、二枚、頭上から櫻の花弁が降り注ぐ。
最期なのだから。
大佐は自分のこととなると、何処までも心配性だから。安心させてやらないと、と。笑わないと、と。大丈夫と言わないと、と。そう、思うのに。
どうしても涙は止まらなくて。<馬鹿みたいに「何で」、と繰り返すだけで。
――― どうしようもなくて。
涙に歪んだ視界に、大佐の口が動いた気がして。
殆ど声の出ていないその口元に、顔を寄せると。
血に塗れた手で、そっと頬に触れて。
「―――――― 君、を……守れて………良かっ、…た……」
そう、呟いて。
力の入らなくなった、その手は。
音もなく、地面へと落ちた。
「……あ……」
大佐が。
「………ぁ……ぁ…あ……」
大佐、が。
「……ぁ………ぁあ……」
―――― 死んだ。
「あぁあああぁぁあぁぁああぁぁぁぁぁああぁ!!!!!!!!!!!」
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