いかないで。いかないで。
そう、泣いて、叫んで。

貴方を引き止められるなら、悪魔に魂を売っても構わなかった。
05 ・ 染まる花弁
 ぺろ、と何かが頬を舐める感触。
 ゆっくり眼を開くと、そこにはあの猫が居た。

「お前……」

 壁を壊してきたのだろうか。乗り越えて? いや、それはどちらでもいい。
 見たところ、猫の身体に傷はなく、安堵の息をつく。

 ふと気が付く。
 敵は。

 がばっと身体を起こすと、まだ頭が痛んだが、そんなことを気にしている場合じゃない。自分の周りに起こっていた炎はすでに鎮火していて、他にも燻っている程度の炎しかない。そして、その僅かな炎に照らされているのは、自分が目にしたより多くの敵の倒れている姿。
 恐らく、自分が気を失った後に敵の救援部隊がやってきたのだろう。倒れている身体の全てに炎に包まれた跡があり、もう誰一人として息をしていないだろうことが知れた。

 その光景に、「イシュバールの英雄」という言葉が重なる。
 これが、大佐の心中に燻り続けていたものなのだろう。割り切ろうとしたが割り切れず、心の一番深いところに封じた記憶。それを、自分を助けるため、それだけのために。

「 ―――――― っっ」

 倒れている人の中に蒼い軍服はなかった。大佐は何処かにいる。……探さなくては。
 痛む頭を抑えて立ち上がる。俯いた視界に、自分の足元に擦り寄る猫が見えた。こんなに小さいこいつだって、こうやって無事にいる。だから、だから。大佐だって。


 木を支えにして一歩ずつ戦場を進んでいく。身体はふらつくし、頭だって割れるように痛む。頭は殴られた所為だろうが、ふらつくのは、多分、身体の何処かから派手に出血しているからだろう。
 なのに怪我の痛みは全く感じない。痛覚が麻痺している訳じゃない。痛みなどより別のことに脳が支配されているからだ。ただ、あの人の姿を求めて。
 顔を顰めながら、それでもしっかりと視線だけで遺体を検分していく。月が雲で覆われているために、明かりといったらあちこちに残っている僅かな炎だけだったが、それでも充分な程に、身体の損傷具合でどれほど激しい戦闘だったかが分かってしまう。
 屍の山の中に見慣れた軍服がないことに安堵する一方で、倒れている人の多さに、少しずつ不安が沸きあがってくる。

 まさか、まさか。自分に言い聞かせる。
 大丈夫だ、大丈夫だ。そう、思い込もうとする。

 そのとき、薄暗かった視界に、急に柔らかな光が差し込んできた。空を仰ぐと、月を覆っていた雲が切れ、その光が降ってきていた。これで探しやすくなる、と視線を空から戻すと、少し離れたところにぼんやりとした薄明かりが見えた。

 大佐かもしれない。

 そう思ったら身体が勝手に動いていた。
 早く、あの場所へ。大佐が、いるかもしれないんだ。


 明かりを目指していくと、あの一本だけ咲いていた山櫻の前の広場に出た。どうやら、この薄明かりはその山桜のものらしい。どうしてなのかは分からないが、僅かに櫻の花自体が発光しているようだった。
 そして、その木の前に、こちらに背を向ける格好で立っているのは。見慣れた軍服と見慣れた黒い髪。

 大佐、と呼ぼうとした瞬間。
 大佐が振り返って、その発火布に包まれた指を鳴らす。音と共に起こった火炎球は、顔の横を掠め、背後へと消えていった。
 その、大佐の余りに冷たい視線に、射られたかのように動けなくて。視線だけでこんなにも圧倒される。
 これが、「英雄」。

 膠着していた二人の間で、にゃぁ、と一声響いた。足元にいた猫が鳴いていた。ついて来ていたらしい。
 その声に、大佐がはっとしたようになって。視界に自分と猫を捕らえて。驚いたように見開かれた目が、緩く細められて。真っ直ぐ引き結ばれていた口元が、柔らかく緩められて。

 そして、支える糸を失ったマリオネットのように。
 ゆっくり、地面へと伏した。

 目の前で何が起きたか、理解できなくて。理解、したくなくて。
 ただ、ふらふらと大佐の方に歩み寄る。

「……大佐………?」

 声が掠れる。倒れている大佐の脇に膝をついて、抱き起こそうと手を伸ばして、その身体から流れる、血の量の多さに言葉を失った。
 今まで立って ――――――戦っていたことが、不思議なほどの怪我。血液は止め処なく、服に、地面に、広がってゆく。

 ――― 少しでも、医学なんて勉強するんじゃなかった。

 そうしたら、もしかしたら、なんて。助かるかもしれない、なんて。
 そう、思えたかもしれないのに。

「―――――― っ………何でっ……何でだよ!!!!!」

 誰に対して、何に対しての問いなのか。自分でも良く分からなかったけれど。ただ、答えが欲しかった。どうしてこんなことになったのか。何が悪かったのか。誰かに、何かに答えて欲しかった。
 叫びに応えるように、大佐が俯けていた身体を仰向けに起こした。何処か焦点がずれて見える大佐の瞳は、それでも自分の方に向けられていて。その表情は、何処までも穏やかで。薄く微笑んだ顔に、一枚、二枚、頭上から櫻の花弁が降り注ぐ。


 最期なのだから。

 大佐は自分のこととなると、何処までも心配性だから。安心させてやらないと、と。笑わないと、と。大丈夫と言わないと、と。そう、思うのに。
 どうしても涙は止まらなくて。<馬鹿みたいに「何で」、と繰り返すだけで。
 ――― どうしようもなくて。

 涙に歪んだ視界に、大佐の口が動いた気がして。
 殆ど声の出ていないその口元に、顔を寄せると。

 血に塗れた手で、そっと頬に触れて。



「―――――― 君、を……守れて………良かっ、…た……」



 そう、呟いて。
 力の入らなくなった、その手は。

 音もなく、地面へと落ちた。


「……あ……」


 大佐が。


「………ぁ……ぁ…あ……」


 大佐、が。


「……ぁ………ぁあ……」



 ―――― 死んだ。



「あぁあああぁぁあぁぁああぁぁぁぁぁああぁ!!!!!!!!!!!」