『自分』ではいられなくなるとき。
 激しくなくて良いから。ただ、そっと、優しく、降り続けて。
優しい雨
 馴染みとなってしまったイーストシティの安宿で、椅子に腰掛けたまま、今にも降り出しそうな空をガラス越しに見上げる。その景色に、特に何の感慨も湧かず、そのまま膝の上の本へと視線を落とした。しかし、それにも集中できず、字面を目で追うだけで頭には入ってこない。
 もう今日何度目になるかわからない溜め息をついて本を閉じ、そのまま隣にあるベッドへと倒れこむ。

 ……別に何かあった訳じゃない。なのに、変だ、とエドワードは感じていた。といっても、それは周囲の状況や、アルフォンスの様子といったものではない。
 変なのは、エドワード自身の感情なのだ。いつものように自分の感情をコントロ−ル出来ない。何だか意味もなく苛々してしまう。何でも構わないから、とにかく暴れ出したかった。叫び出したかった。誰かに八つ当たりをしてしまいそうだった。
 したところで得られるのは自己嫌悪だけだとわかっているし、それに何より、そんなところをアルフォンスに見せたくなかった。心優しい弟は、エドワードを心配するだろう。そして自分の所為かも、と悩むのだろう。
 幼いころ、同じような状態でアルフォンスに八つ当たりをしたとき。途方に暮れたような表情で、自分が何か気に触ることをしたのだろう、と。そう、泣きそうになっていたことを思い出す。
 だからエドワードは、いつものように振舞う。自分の中に渦巻いているものから目を背けて。
 気付かない振りをしていれば、いつしか消えていた衝動。消えるまで触らず、そっとしておけばいい。そうすれば、またいつもの自分に戻れる。

「兄さん」

 買い物に出ていたアルフォンスが袋を抱えて部屋に戻ってきた。
 ベッドに転がったまま、エドワードはすっと仮面をつける。アルフォンスに心配させないよう、『いつもの自分』という仮面を。

「お帰り、遅かったな」
「うん、店でハボック少尉と会ってね、ちょっと話してたんだ」

 ……大丈夫だ、気付かれてない。
 笑顔のまま、心の中では溜め息とも安堵の息ともとれるものを吐き出す。

「あぁ、何か言ってたか」
「こっちにいる間に、司令部に顔出せってさ。あ、あと兄さんが提出してない報告書、大佐が待ってるって言ってたよ」
「………あ」

 アルフォンスの言葉に、すっかり忘れていた書類の存在がエドワードの頭を過ぎる。そういえば、電話で一度報告したときに大佐にそんなことを言われた気もする。
 もう書いたことは書いたのだが。…………。……何処にやっただろう。

 もう一度書きたくない一心で慌てて自分の荷物を引っくり返す。トランクの底を漁ると、その報告書は出てきた。多少の皺はあるもの、忘れ去っていた割には悪くない状態で、これならそのまま提出しても文句は言われないだろう。
 催促が来る前にさっさと提出してこよう。そう思ったエドワードは、コートと書類を掴み、行ってくる、とだけ言い残して部屋を飛び出て行った。

「え、兄さん!?」

 アルフォンスの声。いつもなら「すぐ帰ってくるから」と、そう付け足すのに。今日は、言えなかった。
 逃げるようにエドワードが駆け去った後の部屋には。一人、心配そうなアルフォンスだけが残された。



 急ぐ必要などないのに足早になるのは、誰からも声をかけられないようにするため。今の不安定な精神状態で、誰かの相手をしたいとは思えない。だから、アルフォンスにはああ言ったが、エドワードは司令部へと向かう気はなかった。
 誰とも会いたくなかった。見かけるといつも声をかけてくれる、大佐直属の部下である彼らとは余計に。彼らが、いつも事件に巻き込まれる自分達を、心配してくれていることを知っているから。必要以上に心配をかけたくなかった。
 そういう意味では、一番逢いたくないのは、会いに行かなくてはならない大佐だったりするのだけれど。大佐は変なところで勘が鋭いから、もしかしたら気付かれてしまうかもしれない。そんなところで子ども扱いされたくないし、……彼も、同様に心配するだろうから。
 だから。

「………」

 司令部にいくには曲がらなければならない角を通り過ぎて。
 そのまま、人通りの少ない方へと足を向けた。

 ぼんやりとしたまま、10分も歩いただろうか。ポツリ、と冷たいものが頬を打つ感触に視線を上げた。見上げると、空は雲に閉ざされ、雨の粒が降り出していた。
 濡れたらアルに怒られるだろうな、とは思うけれど、どうする気にもなれなかった。細かい雨に世界は煙ったようで。自分は雨に打たれて、空を見上げて。ただそれだけのことが心地よかった。

 ふとその視界が黒く遮られる。そのことに微かな不快感を覚え、背後にある気配に俯く。
 一番、逢いたくなかった人。


「風邪をひいてしまうよ」


 優しい声に苛つきが募る。


「……ほっとけよ」


 声が震えてしまいそうで、それだけ言うのが精一杯だった。


「傘がないなら送っていくから、早く宿に戻りなさい」
「いい。もう少ししたら一人で帰る」


 怒って。付き合いきれない、と。早く。そして、一人にして。
 だがロイは、優しい声音のまま傘を差しかけている。


「体が冷えてしまう。早く着替えた方が良い」
「 ―――― っ だからほっとっけって!!!!」


 思わず叫んでからはっとする。八つ当たりをした。この人は何も悪くないのに、子供みたいに。
 恥ずかしさで顔が赤くなる。


「放っておけるわけないだろう」


 エドワードの視界が、傘の黒さから蒼に変わる。
 背中に回された温かい腕。柔らかな、体温。知らず、涙腺が緩む。


「……っとけって……言って…のに……っ…」
「あぁ」
「あんたなんか……っ…嫌い…だ……っ…」
「そうか」


 止まらない。
 言葉も、涙も。


「ばか…っ……むのう…っ…」
「酷いな」
「何で…っ……ほっと…って……れないんだよ…」
「君が大切だから」


 エドワードの手が、ロイのコートをぎゅ、と掴む。


「今なら………全部、雨が隠してくれる」


 いつも笑顔でいられるほど、まだ大人になれなくて。時々、理由もなく不安がせりあがってきて。怖くて、淋しくて、どうしようもなくて。なのに、一人じゃ泣けなくて。慰めてくれる誰かがいないと泣けない弱さが悔しくて。どうしようもなく苛々して、八つ当たりして。そんな子供っぽさに、また嫌気が差して。
 強く、なるから。すぐに、本当に、強くなるから。だから、今だけ。せめて強がれる、いつもの自分を取り戻すまで。激しくなくて良いから、ただ、音を立てて降り続けて、この涙と、嗚咽を隠して下さい。



「……全く…」

 睡眠不足と泣き疲れで眠りに落ちた体を、器用に片手で抱えなおす。この様子では、エドワード達が泊まっている宿よりも自宅の方が良いだろう、と判断したロイは家の方へと体の向きを変える。

 早く戻って着替えさせてやらなければ。風呂は流石に起きてからか。
 これからやることを一つ一つ箇条書きにして頭の中に書き出す。忘れずにアルフォンスにも電話をしなければ、と今も宿の一室でウロウロしているだろう彼の姿を思って笑みが零れる。
 本来司令部にいるはずのロイがこんな路地に現れたのは、アルフォンスからの電話を受けたからだった。兄の様子が変だったこと、司令部には向かわずに何処かへ行くだろうこと、そして、兄を元気付けられるのは自分でなくロイだろうということ。
 それらを告げた後、よろしくお願いします、と電話は切れてしまった。


「私達から見れば、君達はもう少し子供でも良いと思うけれどね」


 そんなロイの呟きをも飲み込んで。雨は、ただ静かに優しく降り続いていた。





パソコンをいじってたら書きかけのssを発見したので、よし有効利用と意気込んでいたらば、思っていたより大変でした……。
やっぱり一気にでーっと書くのが一番です。